四国大学      藍の家 研究室
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 ◎徳島県における藍の歴史 

 徳島の藍は,全国に誇れる伝統文化と言えます。昔から徳島の繁栄を支えてきました。

 徳島(阿波の国)における藍は、古くから栽培されていたのであろうと推測されます。しかし、その起源は不明でわかっていません。藍の取引を示す記録が文安2年(1445年)の「兵庫北関入船納帳」に阿波藍の輸送の記帳があり、藍の生産がおこなわれ流通していたことがわかります。

 蜂須賀家政が、天正13年(1585年)に徳島の阿波藩主となってから、藩の財政を支えるために吉野川流域で従来から栽培されていた藍栽培を奨励しました。そして、藍は、塩、煙草、稲作などとともに生産量を増加させました。

 徳島の吉野川下流域の農業を北方農業といい、吉野川の氾濫により、稲作をするには条件が悪い地域でありました。しかしその反面、吉野川は下流域に肥沃な土地をもたらし、水の便もよく、藍栽培にとっては適した地域でありました。藍は、藩による生産の保護と奨励とともに、洪水の被害が少なく、稲作りよりも収益の高い作物の藍栽培が発展していきました。
 また、古来より長い間高級品であった綿は、戦国時代の後期ごろから全国に綿布の使用が普及し、綿花の栽培が始まり江戸時代に入ると木綿問屋も形成され、急速に栽培と生産量が増大しました。綿花の生産の増加にともない綿を染める染料の藍の需要は高まりました。

 そして、阿波藍の栽培は藩の積極的な政策もあり、江戸時代の中期頃には吉野川の下流域から中流域まで広がり生産量をのばしました。阿波の藍は、品質のよい染料として高く評価され、藍玉(すくもを練り固めてこぶし大にしたもの)に加工し、全国に出荷されました。

 藍の生産は、明治時代の後期頃まで生産量が拡大し、明治36年には最高の15,000ヘクタールの生産規模となりました。 しかしその後、化学染料の発明で安価な染料が普及したために、明治40年に、7,542ヘクタール、昭和元年には502ヘクタール、昭和40年には4ヘクタールまで急激に生産が減少してしまいました。
 
 しかし、衰退の一途をたどっていた藍栽培は、伝統工芸品や自然の手作り作品への人気の高まりなどもあり、昭和50年頃から郷土の伝統ある産業として見直されるようになるとともに、藍染め作品が注目されるようになりました。そしてそれを受けて藍栽培の面積も徐々に増加をしてきました。
 昭和50年には、10ヘクタール、昭和60年には、21ヘクタール、平成3年には、22ヘクタールと生産面積が20ヘクタール台にまで回復してきています。


徳島藍の歴史についての参考図書
    ・徳島県史 (徳島県史第4巻昭和40年発行)
    ・阿波藍民俗史(徳島染織学会 上田俊雄氏 昭和58年発行 )
   ・藍染めの歴史と科学(三木産業株式会社技術室 平成4年発行)
  ・日本の藍 染色と美の伝統 (日本藍染文化協会 平成6年発行)